こんにちは。大阪ガスサービスショップナカジマの里西です。突然ですが長浜は豊臣秀吉と関係があることはご存じですか?実は長浜城は豊臣秀吉が築いた建物だったのです。他にも探してみると色々ありましたので今回は長浜と豊臣秀吉の関係について調べてみました。
長浜の名前の由来
長浜の名前の親は豊臣秀吉ということはご存じですか?浅井長政の本拠地である小谷城攻略の際、手柄を上げた豊臣秀吉が織田信長から浅井氏の旧領であった今浜(現在の長浜)を与えられました。そして豊臣秀吉は信長の名から一文字取って今浜を長浜に改名しました。
長浜城
長浜城は天下人となる豊臣秀吉が、1573年ごろに築いたとされる居城です。その時に山城であった小谷城を廃城とし、小谷城の資材や竹生島に密かに隠していた材木などを発見し、それらを使い築城したと言われています。その後、何度か城主が変わった後、1615年に廃城となりました。その際、長浜城の資材のほとんどは彦根城の築城に使われました。そして今ある長浜城は1983年に再建されたもので、長浜城歴史博物館として使われています。
参照:秀吉が初めて築いた”出世城”!近江・長浜城とはどんな城だったのか
銅像
JR長浜駅前にはこのような銅像が設置されています。これは豊臣秀吉が初めて石田三成と出会ったとされる三献の茶の場面を再現した銅像です。三献の茶とは、鷹狩りを行い汗のかいた豊臣秀吉に対して、石田三成が1杯目は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみ入れ出しました。豊臣秀吉が2杯目を頼むと先ほどより少し熱いお茶を茶碗の半分ほど、3杯目を頼むと先ほどより小さい茶碗に熱いお茶を出したというエピソードです。豊臣秀吉はお茶の入れ方にも気を配る石田三成を気に入ったと言われております。また、このエピソードがあったお寺は米原市にある観音寺というところです。
三献の茶・光成と秀吉参照
まとめ
いかがでしたか?私は長浜の長が織田信長の”長”からとられたものということに驚きました。豊臣秀吉と長浜との関係は調べてみると他にも様々なところありますので、もしよろしければ調べてみて歴史を楽しむのも良いかもしれません。
里西
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